ぼくの哲学

アンディ・ウォーホルに自閉傾向があったことはあまり知られていない。
独特の色使いと彼の容姿(白髪で目がギョロッとしている)、同じパターンを繰り返している作品、彼のエピソードや言葉・・・一度、違和感を抱くと、どれを切り抜いても、アスペルガー症候群の可能性を感じる。
草間彌生が個展をした時にギャラリーの壁全面に水玉を貼りつけてウォーホルに「ヤヨイ、ファンタスティック!」と言わしめたらしい。
そして、その直後に開催されたウォーホルの個展では牛のシルクスクリーンがギャラリーの全面に貼られていたらしい・・・。
生き馬の目を抜くニューヨークのアートシーンならではのエピソードにも思えるけれど、「いいな、それ!」と思ったら、パクられた側がどう思うか考えずにやった行動にも思える。
我々は「人の気持ちを考えなさい」と教育されるけれど、脳の構造の違いによって、元々その能力が欠けていたら、どうなるのか?
答えは「人とのトラブルに発展します」ということにつきます。
今、人とうまく関われないシャイな人のことを「コミュ障」と言ったりするけど、ウォーホルはそんなレベルじゃなくて、他人に対してバンバン失礼なことをかましている。
無断で写真を使って、訴訟問題に発展したり、ラリッてビルから飛び降りた友人に対して「なんで、ぼくに教えてくれなかったの?教えてくれたらカメラ回したのに」と言ったりしている。
他人だけでなく、自分の作品も工場で製品を作るように量産し、「ビジネスである」と割り切っている。
私は大学生の時、「ゴッホの手紙」と「ウォーホル日記」を同時期に読んで、ゴッホはテオに宛てて自分の作品について語っている(時には暑苦しい程に)のに対して、ウォーホルの日記はただの有名人との交友録だ、と思った。
小学生の時、大原美術館でウォーホルの作品を観て「恰好いい!」と思った自分がバカみたいに思えた。
現在は、一周回って、ゴッホもウォーホルも唯一無二のすごいアーティストだと思う。
それに、アートをビジネスにして何が悪い。
大体、日本人は成功した人よりも人生に失敗し、苦労したまま死んだ人が好きすぎである。
自分はゴッホのように、孤独で、貧乏で、ひたすら絵を描き続ける人生に踏み込む勇気もないくせに、感動しただの、このひまわりは何億だとか言ってる。
そして、未だにアーティストは孤独で、貧乏で、誰からも認められないまま死ぬんだと思っている・・・人が多いような気がする。
ゴッホの人生のように。
いやいや、ゴッホは売ろうとしていたんだよ?
だって、テオは画商だしさ。
支えてくれるパートナーがいて、あと10年長生きしたら売れてたかもしれないじゃん。

―話が脱線して、ゴッホの話になってしまいましたが―
アンディ・ウォーホルに話を戻すと・・・
ウォーホルがアスペルガーだったとしても、そうじゃなかったとしても、空気を読まずにやりたいことをどんどんやっちゃう推進力はアーティストとして、見習う姿があると思うのです。
アスペルガーは科学者や数学者に多いらしいのだが、ミュージシャンとか美術系も結構いるんだろうな・・・と思う。ADHDっぽい人とか。
むしろ、その傾向がある方が続けられるような気がする。
そして、彼らが科学技術や文化の発展に貢献していたり、今までにないシステムを生み出したりしていることもある。
アンディ・ウォーホルは正に、既存のやり方や空気(絵描きは孤独で貧乏で惨めな死に方をするというような世間の思い込みetc)を覆したと言える。
それと、乾いた風で、新しいものを受け入れてくれるニューヨークだったからこそ、ウォーホルは認められたのだ。
ぼくの哲学」は彼の宇宙人っぷりと新しいものを生み出す力を我々に教えてくれる。