先日、エンブレムの話を書いたら、その後、次から次へと疑惑が出てきましたね。
それを見てて思ったのですが、なんとなくこの人、作品に一貫性がないな、と。
ポスターやらキャラクターを見たら「これはナントカの作品だ!」ってすぐわかる人じゃないんだなって。
予備校で蜷川実花と同じだったってどっかに書いてあったんだけど(大学も同じはずだけど・・・大学の同級生って書き方がしてなかったってことはどっちかが浪人して学年がズレたんだろうか)、蜷川実花とかはすぐわかるわけです。
写真にしろ、映画にしろ、本人が滲み出てる。
好き嫌いはあるのかもしれないけど、それは置いといて。
デザイナーも作家のようにある程度キャリアを重ねたらそういうのがあった方がいいんじゃないかな~と思うのです。
私がデザイン科にいたのは宇野亜喜良とかミュシャとかが好きだったからです。
二人とも作家性が強くて、デザイナーっていうか、もはや作家じゃんって感じ。
で、浪人してる間に予備校にMacが導入され、「手で絵が描きたい」私は何かが違う・・・とようやく気づくのです。
そして、ハンス・ベルメールという人形師のエングレービングを見て、銅版画をやろうと本格的に方向転換を図りました。
周りから見たら、マジで何やってんの?って感じだったんだろうけど、それで良かったと思います。
別に自分に銅版画の才能があるとも思わないけど(細密描写系じゃないしね)、自分は平面系ではあるが、デザインでも油絵でもなかったのです。
銅版画はヨーロッパで生み出された技法ですが、日本人の気質によく合うと思います。
平面的で、線を多用しているところなんか、そのまんま漫画文化と同じです。
日本には浮世絵という木版画があったのですが、浮世絵も元々ポスターや漫画の役割をしていた物です。
北斎の絵なんかユーモラスで、観ていて旅をしているような、江戸時代にいるようなワクワクした気持ちになれます。
北斎は水の画家で、多種多様な水の姿を描いた「阿弥陀ヶ滝」などは特にすごい。
初めて観た時、宇宙人の絵かと思った(笑)
滝壺の手前、奥を表現する為にグラデーションが施されているのが、また不思議。
遠近法が入ってきた時に画狂人・北斎が生きていたら、どんな絵を描いただろうか、と思われます。
「画に師匠はない」と言っていた北斎ですが、北斎の師は自然です。
自然を観察し、自分の工夫した表現で描き出す。
現代のように何でもパソコンで調べられて、美術館に行けば色んな作品を観ることができ、学校では色んな技法を教えてもらえる時代ではないのです。
私も時間があれば、ただひたすら観察して描くことをやりたいもんです。