11/7から11/12までギャラリーそらの3階で個展を開催させていただきました。
私は会期中、午前中は仕事に行って午後在廊して夕方保育園にお迎えに行くというスケジュールであった為、折角来ていただいたのにお会いできなかった人が沢山いて残念でした。
そんな中短い中でも色んな出会いがあって面白かったけど。
写真家の池本さんが「これだけ技術があるなら新しいことをしろ」とか言い出して、うーん、そうだねぇ、と考えて「雪の降ってる砂丘を裸で走ったら自分の殻を破れるんじゃない?」と言っていた。
テキトーに言ってるだろ(笑)と思ったんで「お断りします」と言っておいた。
新しいことしてるんだけどね。
私が勝手に作った技法とかやり方でマチエール作ったりしてるし。
ただ、版画っていうのは、銅版画なら銅版画っぽい作品になるのは確かで、池本さんの言いたいことはわかる。
つまり、技法があるので「木版なら木版っぽい作品」になるし、それを作っている人も「木版っぽい作品が好きで木版を自分の表現手段として選んでいる人」が多い。
だから、素人目に見ると先人たちと同じような画面を作っているように見える。
そして、私は「新しいことをしたい!」とか「他の人と違うことをして目立ちたい!」とか「観る人をびっくりさせてやるぜ!」とか思って制作していない。
(大体、そういう人は版画じゃなくて、現代美術の方向に進むと思うが・・・)
あくまでも、自分の作品のコンセプトがあって、それに合う画面作りができるようになりたい、という想いで作っている。
だから、新しい技法を生み出すことが重要なのではなく、自分が水のイメージが欲しいとか女性性としてのレースが欲しいとか、その画面に合ったマチエールを考えてたまたま新しいことができた、というのはある。
私の中では、誰もやってない技法をやることが大事なんじゃなくて、イメージを画面に表すことが大事なことなのだ。
(そんな調子だから、真似されることもあっても、黙認してる)
版画をやる人は油絵を描く人やデザインの人の調度中間の人が多くて、超細密に描ける実力派から、画面の構成力のある人から、デザイン性に優れた画面の作れる人から、手先の器用な人から、色んな人がいるし、色んな絵があるんだけど、「版画は版画っぽくなる」というのは避けられないことだと思う。
私は「版画っぽい絵」が好きだから、版画を続けているんだけど、そもそも紙に印刷されているものが好きなので、高校生の時から続けているコラージュも会場に置いた。
高校生の時、東京に行ったらDMとかフライヤーをいっぱい貰ってきて、それをスクラップブックに貼って、平面構成のネタにしようと始めたことなんだけど、予備校の先生がそれを見て「大竹伸朗って知ってる?」と訊いてきた。
大竹伸朗はそのスクラップ自体が作品になっていて、それがロックな感じで恰好良かった。
なんとなく、そのまま私は紙を集める、組み合わせる、貼るという作業を大人になってもやり続けている。
そして、それが版画の制作を助けることがよくある。
時々、あのままデザイン科に入って、デザイン事務所に就職していたら、どんな人生だったんだろうと思うことがあるけど、私はそのレールから19歳の時に降りたのだ。
自分がずっとやりたいと思えることに出会えたから。
書道家の瀧先生も観に来てくれて、瀧先生が話していたんだけど、千住真理子はストラディバリウスの音を聴いた時「これしかない!」と思ったんだと。
京大の法学部の時にある字に出会って書家になった人もいるよって。
みんな、そういう出会いをして、自分で何かを決めているんだと思った。
私の場合は浪人をしている時、色んなジャンルの画集を見ていて(気に入ったのがあれば、コピーを取ってそれもスクラップしていた)、ルドンのリトグラフを見て版画科に行こうと思って、ベルメールのエングレービングを見て、銅版を専攻しようと思った。
今思うと、ベタなものが好きだったんだなぁと思うけど、そういう「ザ☆版画!」みたいなのに惹かれたから版画っぽい作品を作り続けたいんだなと思う。
まだまだ、個展をやって気づいたことや学んだことはあるから書き切れないかもしれないけど、また次回。