みどりの意思

前回の記事で紹介した「くらよし・まち・アート」を観てきましたよ!
DCIM0700
これは元・喫茶店に作品が展示されている様子です。
色んな場所に作品が点在していたので、それをうろうろ観て歩くのが楽しかったです。
展示されていたブースの一つで、河本緑石記念館というのがありました。
私も河本緑石という人は初めて知ったのですが、自由律俳句を詠まれていた人だそうです。
宮澤賢治と同級生で「アザレア」という同人誌を一緒にやっていたらしい。
そして、「銀河鉄道の夜」のカンパネルラのモデルなのではないか、と言われているらしい。
しかも、賢治と同い年で同じ年に亡くなったらしい。
ーというところまでは「ほー」という感じですが、死に方がカンパネルラのように溺れた人を助けて死んだらしい、という点で「あ、何か知ってる!」と思ったら、うちの近所の海や小学校に石碑が建っていて「昔、農高の先生が溺れた人を助けに行って、死んだらしい」というのを聞いていて、その人が緑石だったからです。
鳥取出身の自由律俳句だと「咳をしても一人」とかを詠んだ尾崎放哉という人がいますが、放哉のことを書いた著作などもあるらしい。
「らしい、らしい」ばかりですが、私自身、聞いたばっかりで、緑石という人がまだ自分の血肉なっておらず「そんな人がいたのか~」という程度だからです。
そういう人がいたらしいという話を聞いて、きっと、立派な人だったのだろうな、と思ったのです。
ただ、「立派な人」ってあまり感情移入できなくて、尾崎放哉とかチャールズ・ブゴウスキーとかアル中詩人みたいなのの方が「わかる」気がするんです。
傍にいたら、絶対につき合わないですけどね。
120%だめんずだもん。
そもそも、私が昔つき合った人で2人続けて、尾崎放哉が好きな人がいて、2人ともダメだったからね!
いきなり、話が下世話な感じになって申し訳ないですが・・・。
「咳をしても一人」という自由律俳句を読んで、キュンとくる感受性は危ないと言えます。
ただ、言葉のセンスはいいのかもしれません。
それを会話のセンスまでもっていき、コミュニケーション能力を高めて、ビジネスで使えるようになったのなら、だめんずではないのかもしれません。
そもそも、そんな人は尾崎放哉の自由律俳句に惹かれないか。
同族嫌悪なのか、元カレへの恨みなのか、尾崎放哉批判みたいになってしまいましたが・・・。
昔の文学者って、基本的にだめんずですよね。太宰治とか。
ただ、河本緑石と宮澤賢治は違う。
だって、農高の先生やりながら、創作したり仲間と文通したり、溺れている人を助けたりするわけだから。
働きながら創作活動を続けた人として、カフカとか宮澤賢治とかいるのですが、両立というのは殆どムリな話で、家庭や職場でわちゃわちゃと雑音が入ってくるとなかなか集中できないものです。
芸術家一家とか制作する環境が整っているならまだしも、何もない文化レベルの低い所でやっていくのは何もしない方が幸せなのではないか、と思われます(当社比)
細々と続けている者が学んだコツとしては「元をとってやろうと思わない」ことと「わけがわからないことに巻き込まれたら、全力で逃げる。人に嫌われてもいいから、プライベートでは自分を殺してまで人とつき合わない」ことです(笑)
今、河本緑石さんのような人が同僚にいたら、怒られるか、励まされるか、どちらでしょう。

河本緑石研究会